
稲森 光太郎 (いなもり こうたろう)さんの自己紹介
兵庫県出身で、新潟に来て約10年になります。大学では化学工学を学び、工場設計の仕事に携わってきました。その後、関川村で稲作に挑戦し、新潟市に移り住みました。2024年に西区内野町の銭湯「旭湯」を引き継ぎ、改修を行って営業を再開。風呂の気持ちよさを大切にしながら、日々営業を続けています。
PROLOGUE
先週の「本と印刷編集室 こんこん堂」に続き、新潟市西区の内野町へ。
家具メーカー「ISANA」の中川さんにご紹介いただきやってきたのは、「こんこん堂」から徒歩約1分。住宅や商店が並ぶまちの一角に、何世代にもわたって愛されてきた場所があります。
旧北国街道沿いから路地に入ると、そこに佇むのは創業110年、内野のまちとともに歩んできた銭湯「旭湯」です。


時代とともにその数を減らし、新潟市内でも数えるほどとなってきた銭湯ですが、「旭湯」は、今も地域に根ざしながら営業を続けている一軒です。
銭湯や温泉が好きで、休日になると大きなお風呂に入りたくなるごっつぉライターの私も、この旭湯には家族で何度かおじゃましています。今回、お話を聞けることを楽しみにしていました。

ガラガラと引き戸を開けると、まず目に留まるのが下駄箱。年季の入った木製で、鍵が木札になっています。初めて訪れたとき、思わず「こりゃ渋い~!」と声を漏らしました。
実は、2023年1月から長期休業していましたが、2024年5月にリニューアルオープンし、新たな時を刻み始めました。

現在「旭湯」を運営するのは、兵庫県出身の稲森光太郎(いなもりこうたろう)さん。先代と親族関係にあったわけでも、元々この銭湯を継ぐつもりで新潟に来たわけでもありません。
この場所を引き継いだ稲森さんに、新潟で暮らすことになったきっかけや、「旭湯」が再び灯りをともすまでの経緯などについて、お話を伺いました。
INTERVIEW
残すものと変えるもの、その選択の先に

「旭湯」が誕生したのは、1916(大正5)年。内野町が新潟市と合併をする前の旧内野村だった頃から営業しており、現在では西区で唯一の銭湯となりました。1953(昭和28)年に発生した内野大火により建物が全焼しましたが、すぐに再建され、それから約70年にわたり地域の人々に親しまれてきました。
建物の老朽化により、2024年に大改修を行い、昔ながらの銭湯の造りを残しながらも、現代に合わせた様式へと生まれ変わりました。
「すべてを変えるのではなく、残すところは残すようにしました。下駄箱やこの番台は昭和から使われてきたものですが、浴室に大きく手を入れています。以前はタイル張りでしたが、いまは耐震性の高い木の浴室に改装しました」と稲森さん。
営業前に、特別に浴室内を見せていただきました。

清潔感あふれる室内は、洗い場に湯船が1種類とシンプルな造り。壁面には杉板が用いられ、木の香りが漂っています。この香りに包まれながら湯船に浸かると、ふぅ~っと体も心もほぐれていくのが感じられるんです。また湯加減もちょうどよく、我が家の子どもたちも気持ちよさそうに入ってくれます。 さらに、お風呂だけではありません。男湯の浴室の奥には扉があり、なんとサウナも完備しているんです。

サウナは男湯のみになりますが、入浴料とは別料金で、利用する場合は最初に支払っていただきます。温度は約90度、湿度は60%の乾式サウナで、日本刀のように赤くなるまで体を熱し、水でしっかり冷やすのがポイントです。一度体験すると、その爽快感にハマる方が多いですね」と稲森さん。
サウナ後のシャワーや水風呂、外気浴スペースもそろい、まちなかの銭湯とは思えないほど本格的。内野周辺だけでなく、他の区からサウナを目当てに訪れる人の姿も見られます。

皆さん、「湯快券(ゆかいけん)」をご存知でしょうか。新潟市公衆浴場協同組合が発行している銭湯の共通サービス券で、新潟市在住であれば誰でも無料で申し込むことができます。
「湯快券があれば大人は大人は月5回まで、1回320円で入浴できます。若い方にも気軽に銭湯に親しんでもらいたいですし、サウナも含めてこの場所の心地よさを感じてもらいたいです」と稲森さん。
各銭湯それぞれの個性に加え、組合と連携しながら、まちの銭湯を身近に感じてもらうための取り組みも行われています。
はじまりは偶然、たどり着いた銭湯承継
稲森さんと「旭湯」との関係は、決して深いところから始まったわけではありませんでした。
元々、銭湯が好きだった稲森さんですが、以前は西区外で暮らしていたこともあり、「旭湯」を訪れるのは年に数回。日常の中心にある場所というよりは、近くに行った際にふらっと立ち寄る銭湯のひとつだったといいます。

「ある日、いつものように訪れると、入口に『休業』の張り紙があって閉まっていたんです。もう建物は老朽化していたし、先代もお年を召されていて後継ぎもいない状態だったので、『なくなるかもしれない』という話も耳にしました。でも、次に引き継ぐ方が見つかったんです。当時、僕は建築関係の仕事をしていたので改築の相談があり、仕事で携わることになったんですが……」と、稲森さんは当時を振り返ります。
しかし、話は思うように進みませんでした。再開を担うはずだった人が辞退し、次に新たに現れた人もまた断念することになり、計画は頓挫してしまうことに。周囲には再開を期待する人がいるけれど、誰も実際には動かない──その状況に対して、稲森さんは強い違和感を覚えます。
「やると言っていたのにやらないということに、どこか引っかかったんです。手を挙げた以上は、きちんと最後まで形にする。それが人と人との約束なんじゃないかと」

それは単なる感情ではなく、仕事に対する姿勢でもありました。言葉にした以上は引き受ける。そうでなければ、言った意味がなくなってしまう。だからこそ、誰もやらないのであれば自分がやるしかないと、覚悟を決めたのです。
銭湯が好きで、たまたま改築に関わる立場から、事業を引き継ぐ立場へ。その変化は大きいものでしたが、決断は、驚くほど自然なものだったそうです。
再び動き出した、その先の物語へ

稲森さんが引き継ぐことになり、実際に手を入れてみて分かったのは、銭湯という建物の特殊さでした。当時の建物は、内野大火の後に建て直されたもの。長い年月を経た構造は、現代の建築とは大きく異なっていました。
「実際に壊してみないと分からないところが多かったですね。このような造りをちゃんと理解している人も、今はあまりいなくて。図面だけでは判断できない部分もあるので、想像以上に大変でした」
壁の中、床の下、配管の状態。図面だけでは把握できない場所は、現場で一つひとつ確認していく必要がありました。昔ながらの造りは、合理性よりも経験や感覚に基づいている部分も多く、現代の設備とどう組み合わせるかを考えることは簡単ではありません。

その中で、特に意識したのが「熱の使い方」でした。実は、大学で化学工学を学び、工場設計の仕事に携わってきた稲森さん。エネルギーの流れや効率を考える視点は、浴場設備にも応用できるものでした。
「一番コストがかかるのはガス代なんです。お湯を沸かし続ける銭湯にとって、燃料費は経営の根幹に関わります。建物の改修は単なる修繕ではなく、事業として成立させるための設計でもありました」
一方で、すべてを新しくするのではなく、これまで使われてきたものをどう残すかという視点も欠かせなかったといいます。その象徴的な出来事が、下駄箱の鍵の修繕でした。

長年使われてきた木製の下駄箱。そこについている札や鍵は非常に繊細で、取り外すだけでも壊れてしまうような状態だったといいます。その修繕を依頼したのが、前々回登場した「ISANA」の中川さんでした。
下駄箱の多くの扉は、ノコギリやノミを使いながら一つひとつ手作業で直していき、なくなってしまっていた木の鍵は新たに製作。札の文字についても、元のフォントをトレースし、消しゴムハンコを作って再現するなど、いずれも手仕事でかたちにしていきました。


「壊れやすい古い部材を扱いながら、元の形を崩さず、機能を回復させる。その繊細で難しい作業をやり遂げてくれて、技術はもちろんですが、修繕方法を編み出す知恵、そしてその速さに感動しました」と稲森さんは振り返ります。
必要以上に新しくするのではなく、最小限の手を加えながらこれからも活かしていく。残しながら直すことの難しさと価値を実感しながら、2024年5月、「旭湯」は再び営業を始めました。

整えられた空間を、これからも気持ちよく使い続けていくために。稲森さんが大切にしているルールがあります。
「『頭と体を洗ってから湯船に入る』こと。これがうちの唯一のルールです。これは絶対、記事に書いてください(笑)」
ただお湯に浸かるだけではなく、気持ちよさを感じる時間としての銭湯。共同浴場として、多くの人が同じ空間を利用する以上、その当たり前を守ることが、この場所をこれからも続けていくことにつながっていきます。
次回は、稲森さんが銭湯を継承することになったきっかけや、異業種から現在の銭湯経営に至るまでのストーリーをお聞きします!お楽しみに。








