
笹川 太朗 (ささがわ たろお)さんの自己紹介
新潟市中央区出身で、餅屋の息子として生まれ育ちました。高校を卒業後は東京の大学へ進学し、卒業後は業務用チョコレートメーカーで営業職として働いていました。30歳でUターンして以来、笹川餅屋の六代目として店を継いでいます。先代が築いた笹団子の味を守りつつ、新しい商品開発にも取り組んでいます。学生時代はずっと野球をしていました。
PROLOGUE
前回の「つながる人」富山聡仁(とみやまとしひと)さんを訪ねた新潟市中央区東堀通から、今回は西堀通へ。古町通を横切る形で歩いて行くと、見るからに歴史がありそうなお店があります。ちょうど西堀通と鍛冶小路が交差する角にある「笹川餅屋」さんです。

その名の通りお餅屋さんなのですが、歴史を感じさせる店先の看板や味のある民芸品が目を引きます。ショーケースには豆大福やお饅頭、笹団子などが並んでいます。店構えはいかにも老舗らしい歴史が感じられますが、なんでも、笹川餅屋さんは新潟の名産品でお馴染みの「笹団子」にも深い縁があるのだとか。

「つなげる人」の阿部仏壇製作所の吉田さんご夫妻が「うちは笹川さんのところの笹団子しか買いません!」と激推ししていた笹団子。今回は、笹川餅屋の笹川さんにお店の歴史や笹団子のおいしさの秘密、老舗を守るための商売について、じっくりとお話を伺いました。
INTERVIEW
新潟の街で生き永らえてきた老舗餅屋
笹川餅屋の創業は明治16年(1883年)にさかのぼります。現在、六代目として暖簾を守っているのが笹川太朗さんです。140年以上の歴史があるお店ですが、創業当初からこの場所にお店があったのでしょうか?

「創業の地は、現在の場所ではなく、今でいう信濃川近くの旧下町、花町周辺でした。笹川トイという女性が創業者で、当時はお団子屋さんやお餅屋さんは水商売のくくりとされていて、女性が主体となる商売だったそうです」
創業当時、まだ砂糖が全国に流通していなかったため、非常に貴重なものでした。砂糖を使った和菓子は高級品とされ、売り手や作り手も男性が主体だったそうです。そのため、女性である初代が始めた笹川餅屋で作っていたのは甘いお菓子ではなく、「おやき」や砂糖を使わない塩きな粉、塩小豆、醤油や味噌などを使った団子やお餅が主流だったといいます。

また、当時のユニークな商売として「賃餅(ちんもち)」というものがありました。
「リヤカーのようなものに臼と杵を載せて、『賃餅〜、賃餅〜』と言いながら街を歩いていたそうです。街の人に声をかけられると、その家で蒸したもち米を、代わりにつくといういわゆる餅つきの代行商売です。年末などはそうやって歩いて商売をしていたと聞いています」

その後、明治28年(1895年)に日清戦争が終わり、砂糖が流通し始めると、あんこを使った甘いお菓子やお饅頭が手軽に作れるようになり、笹川餅屋の商品の幅も広がっていきました。
「店舗の場所は明治41年(1908年)の新潟大火の後に、今の西堀通の場所へ移転してきました。時代や街の状況に伴って、点々としてきたようです」と笹川さん。以来、明治40年代頃から100年以上、この場所で商売を続けてきました。

笹川餅屋は新潟土産・笹団子の立役者!?
さて、冒頭もちらっとお話しした笹団子。今や知らない人はいない、新潟の名産品かつお土産として親しまれていますが、この笹団子が笹川餅屋、そして新潟県にとって大きな転機をもたらしました。それは昭和39年(1964年)、東京オリンピックが開催された年で、同時に新潟国体が開催された年でもありました。
「実は新潟国体開催の3〜4年前から『全国から人が来るけれど、お土産をどうしようか』という話が、新潟県や新潟市から祖父に相談があったそうです。当時はお漬物や味噌漬け、お酒なども候補に挙がっていたそうですが、その中で家庭で作られていた郷土料理である笹団子を、日持ちのするお土産にできないか?という話になったのだそうです」

それまでの笹団子は、農家で出たくず米をどうしたらおいしく食べられるかという工夫から生まれたもので、お土産というよりは各家庭で作られるものでした。また、製法は「茹でる」のが主流で、中身もあんこだけでなく、きんぴらやおかずを入れたり、塩小豆だったりとさまざまでした。そして、「茹でる」製法では日持ちがしませんでした。
そこで、笹川さんの祖父にあたる四代目・勇吉さんが中心となり、笹団子の改良に取り組みました。勇吉さんは笹川餅屋の四代目であり、郷土史の研究家でもありました。

四代目の笹川勇吉さんの研究と努力の賜物ですね!
(※ご提供画像)
「祖父は他の国体の視察に行き、どのようなお土産が売られているか、どういう売り方をしているかを見て回りました。そして、県や市の食品研究所や施設などと一緒に実験を重ね、日持ちをさせるために『茹でる』から『蒸す』製法に変え、あんこの糖度を管理し、製造ラインを統一してお土産として売り出していったそうです」
新潟国体開催のタイミングで、新潟土産として販売が始まった笹団子。新潟県と新潟市から推薦特産品との認定を受け、新潟国体で全国から集まった選手やコーチ陣が笹団子をお土産として持ち帰り、全国に新潟の笹団子が広まっていきました。

(写真左・※ご提供画像)
こうして家庭料理だった笹団子は、お土産としての笹団子となり、新潟を代表する銘菓としての地位を確立。笹川さんは幼い頃、自宅に郷土史家の仲間やお茶の先生が集まり、祖父が笹団子の話をしていたのを傍で聞いていた記憶があるそうです。
素材にこだわり、時代の変化と向き合う
六代目として店を切り盛りする笹川さんですが、代々受け継がれてきた伝統を守りながらも、変わる環境の中で「変えないための努力」を続けています。近年、特に苦労しているのが、原材料の確保です。
「ここ十数年で、笹もヨモギも値段が3〜4倍に高騰し、欲しい量の7割程度しか手に入らなくなってしまいました。取る方が高齢化でいなくなってしまったこともあります。そういった事情もあって、3年前からは自分たちで採りに行くようになりました」と笹川さん。

自分たちで採りに行っているそうです!
(※ご提供画像)
え!笹を自分たちで取りに行ってるんですか!?
「そうなんです。スタッフの中に下田の方に親戚がいる人がいて、笹の群生地を紹介してもらい、5月の連休明けから7月にかけて、お店を休んでみんなで採りに行っています。ヨモギは五頭山の方へ新芽を採りに行きます。新芽は香りが良く、繊維が残らないため口当たりが良いんですよ。笹もヨモギも、これを変えてしまうと、うちがうちでなくなってしまいますから。お客様も気づいてしまうので、そこは裏切れないという思いでやっています」と笹川さんは真剣な眼差しで語ります。
また、もち米についても、近年の猛暑が大きな影響を与えています。一昨年は暑さで米が焼けてしまったり、今年は雨不足により出来の良い年に比べるともち米にコシが弱くなってしまったのだとか。
「北海道にお住まいの常連さんなどは、食べただけで『今年の米はダメだね』と気づかれます。そういう時は正直に『今年のもち米はこういう状態です』と事前にお伝えしています。気候によって味は変化してしまうのは避けて通れないことですし、隠しても仕方がないことですから正直に伝えなければなりません」

気候や素材の変化に合わせて、水加減や蒸し時間を調整する。レシピ通りにはいかない部分を、職人の経験と勘で埋めていく。一筋縄でいかない作り手の苦労があるのですね。
「伝統を守る」一方で、笹川さんは時代に合わせた変化も必要だと考えています。その一つが「甘さ」だと笹川さんは語ります。
「昔に比べて、求められる甘さは変わってきています。昭和39年当時は甘いものがごちそうでしたが、今は甘さ控えめが好まれる。そういった嗜好の変化に合わせて、あんこの甘さの感じ方を変えています」

また、新しい商品開発にも積極的です。太朗さんの代になってから始めたのが、夏限定のかき氷「笹団氷(ささだんごおり)」や、新潟市の「ティオぺぺ」と共同開発したお餅用のふりかけも販売しています。
「その他にも、笹団子やちまきの形をした木製のマグネットを制作し、販売しています。外国人観光客の方にはマグネットは好評ですね。『売ってくれない?』と言われて、自分たちでデザインして作りました。思わぬところに需要があるものです(笑)。うちのような小さな店は、興味を持たれなくなったり、飽きられたりすればすぐに消えてしまいます。だからこそここにしかないもの、少し変わったものを提案して、興味を持ち続けてもらうことが大切だと思っています」

その姿勢は「お客様に対して誠実でありたい」という笹川餅屋の根底にある精神そのもののように感じます。
次回はチョコレートの営業マンだった笹川さんのUターン秘話、新潟の街で育ってきての思いなど、笹川さんの人生に迫ります。お楽しみに!








