関 道雄 (せき どうゆう)さんの自己紹介
佐渡出身、現在82歳です。中学卒業後は東京・堀之内妙法寺で修行を積み、一時は電気技師としても働いていました。後に立正大学で学び、佐渡へ戻ったのは昭和47年(1972年)のことです。佐渡では円静寺(えんじょうじ)の第27世住職を務め、昭和48年から60年までは妙宣寺執事として山門建立などに携わりました。平成18年(2006年)に妙宣寺第47世貫首(かんじゅ)に就任して今に至ります。
PROLOGUE
佐渡の西側に位置し、真野湾に面した真野地区。
真野にはかつて佐渡国の国府が置かれ、佐渡最古の寺院を継承したとされる佐渡国分寺、1221年(承久3年)の承久の乱で敗北し、佐渡で22年を過ごした順徳上皇を祀る真野御陵(まのごりょう)があることでも知られる地域です。
真野地区は両津港から車で30分ほど。
ゆるやかな坂道を上って行くと、前回のごっつぉLIFEでご紹介した「ラ パゴッド」と、そのお向かいには、木々に囲まれた荘厳な五重塔が姿を現します。
今回ご紹介するのは、この五重塔を有する「妙宣寺(みょうせんじ)」。
妙宣寺は、日蓮宗の古刹として800年近い歴史を刻んできた、佐渡の歴史を語る上で欠かせない寺院の一つ。今も国内外から多くの参拝者や観光客が訪れています。
妙宣寺の歴史は、日蓮聖人の佐渡配流に遡ります。
日蓮宗の開祖である日蓮聖人は、当時の飢饉や疫病といった災いは、正しい仏法に従っていないために起こったものという「立正安国論」を説きました。その出来事が鎌倉幕府の怒りを買い、その後も幕府を批判したとして、日蓮聖人は佐渡へ流罪となりました。
日蓮聖人は苦境に立ちながらも、佐渡の地で「観心本尊抄」などの重要な著作を著し、法華経を布教。その中で、日蓮聖人が出会ったのが阿佛房日得上人(あぶつぼうにっとくしょうにん)です。
妙宣寺は、熱心な法華経信者となった阿佛房日得上人が、妻の千日尼(せんにちあま)と共に開いた道場「阿仏坊」が前身であるとされ、天正17年(1589年)に現在の場所に移った際に、妙宣寺の寺号を起こしたと言われています。
境内で最も目を引くのは、やはり新潟唯一の五重塔!
高さ約24メートルのこの塔は、文政8年(1825年)に、相川の宮大工・長坂茂三右衛門によって建立されました。
心柱が杉の一本造りになっているのが特徴で、各層の高欄や浅唐戸は資金難のため未完成のままですが、その荘厳な姿は江戸時代の建築技術の高さを今に伝えています。
この歴史ある寺院を、平成18年から守り続けているのが、ご住職である関道雄さん。
「今日はね、普段法要で皆さんにお話しすることを、語らせてもらいましょうか」と穏やかに語る関さんから、人生における哲学、お寺の役割、心の在り方などなど、普段なかなか聞けない貴重なお話を、たっぷりと伺ってきました!
INTERVIEW
修行僧から電気技師、そして住職に
「人生には思いがけない道筋があるものです」と、ゆったりとした口調で語り出す関さん。
ここに来るまでにどういった道を歩んで来られたのか、まずは関さんのこれまでの人生について語ってくださいました。
関さんは、真野にある円静寺の13代目住職の子として誕生。
お寺で生まれた子どもの宿命でもあったそうですが、中学2年生の時、日蓮宗の本山でもある東京の「堀之内妙法寺」への修行を命じられました。
「田舎っぺの私は、東京という街をきょろきょろと見回すばかり。別世界に来たような気分でした」と、関さんは当時を振り返ります。
堀之内妙法寺は、全国から若い修行僧が集まる寺院として知られる名刹。
ここでの修行は、毎日のようにお経をあげることに加えて、トイレの掃除も修行の一環でした。
トイレに続いて廊下掃除、庭掃除と、基本的な作業の繰り返し……。
「やり方が悪いとすぐにやり直し。とにかく丁寧に、しっかりと物事に取り組むことの大切さを教わりました」
特に廊下の掃除は、風で積もる土やほこりを丹念に拭き取る必要があり、とにかく大変だったそうです。
つらい修行の日々。若き日の関さんの興味は、やがて別の方向に向いていきました。
「もともと好きだった化学や電気への興味が抑えきれなくてね(笑)」という関さん、なんと堀之内妙法寺を一旦離れて、町の電気店に飛び込んだそう!
す、すごい行動力です!!
そこでテレビ修理の技術を学び、技術者試験の第1回生として資格を取得。
各家庭を訪問して修理を行う中で、関さんは人生の思いがけない真実に出会うことになります。
「修理の仕事で、勝手口からお邪魔するでしょう。
そうするとね、その家の素顔が見えてくるんです」
玄関という“表の顔”ではなく、日常の営みが垣間見える勝手口からの訪問は、その家庭の“本質”を映し出しているように、関さんは感じたといいます。
「立派な門構えの家でも、実は夫婦関係が冷めていたり、逆に、質素な家でも温かな家族の絆が感じられたり。
そういう機微が、おのずと勝手口から見える光景と伝わってきたんですね」
人々の暮らしに触れるうちに、関さんの心の中には、新たな思いが芽生えてきました。
「お坊さんという立場なら、もっと深く人々の心に寄り添える。
『こうしたら夫婦仲が良くなりますよ』『ああしたらダメですよ』と、遠慮なく伝えられるのではないか、そう考えるようになりました」
その思いを胸に、関さんは立正大学で仏教を学び直します。
そして、学びを終えた昭和47年の春、生まれ育った佐渡の地に戻ってきました。
「佐渡には都会にはない、本質的な豊かさがある。気候も風土もいい。大気の汚染もない。
欲にとらわれず、のんびりと暮らす方が人生は充実するものでしょう」
電気技師から住職へ。
一見、回り道に見える人生の軌跡は、人々の心に寄り添う住職としての関さんの深い洞察力を育んだのかもしれません。
日頃の行いは“表情”に出る!?
お寺のご住職から聞く話といえば、法話や説法があります。
法話とは、僧侶など仏教に携わっている方が、仏教の教えに基づいた話を、一般の人向けに分かりやすく説いて語ること。
葬儀のお通夜や法事などで、お坊さんがお経を読んだ後に話してくださるお話というと、分かりやすいでしょうか?
普段、お寺に足を運ぶことがほとんどない私にとって、関さんが語る言葉の一つひとつが心に沁み入るものがあり、終始「ははぁ……」「なるほど……」とただただ頷くばかり(笑)。
たくさんのお話を聞いた中で、ハッとさせられたことがありました。
それは「今の自分の顔は、生まれてから今までの行いの表れ」ということ。
鏡に映る自分の表情から、今の幸せも不幸せも読み取れるのだと、関さんは話します。
「見ず知らずの人でも、『あの人は人相が悪いな』『叩けばほこりが出そうだな』と思う人がいるでしょう。その人相は、生まれつきのものではなく、その人の心がけや行いによって形作られるのです。自分自身が醜くもなり、尊くもなる。それは自分の心がけ次第なんです」
関さんは、この考えの根底にあるのが、「潜在意識」という概念だと教えてくれました。
「例えば、鍵をどこに置いたかを忘れてしまった時のことを考えてみてください。
必死に思い出そうとしても出てこない。でも、ふとした瞬間に『あ、あそこだ!』とひらめくことがありませんか。
それが潜在意識の働きです。自分では意識していなくても、潜在意識は確かに働いている。その潜在意識が、知らず知らずのうちに、私たちの人相を作っているんです。
大切なのは、世のため人のために尽くすという心がけ。自分のためだけでなく、世のため人のために生きる。そういう心がけで生きていれば、自然と仏の表情になってくるんです」
なるほど……長年、積み重ねてきたものって“表情”に出るのですね(いや、もうすでに出ているということですよね!?)
これまでの自分の行いを振り返りたくなるような、背筋がピンと伸びるお話でした。
EPILOGUE
人々の心の拠り所であるために
関さんが妙宣寺の住職となって19年。
その中で関さんは、お寺は地域交流やコミュニケーションの場や、文化の拠点といった役割も併せ持つものであり、法事やお葬式だけがお寺の役割ではないと考えてきました。
そのため、近年の妙宣寺では、これまでにはなかった能や音楽イベントなども開催。
地域や人の声に耳を傾けながら、必要とされる場面で手を差し伸べてきました。
「やりたいと言ってくだされば、私たちは『はい、どうぞ』と。お寺はいろんな方々にとって、開かれた場所でなければなりませんから。
お寺って、何をしに行けばいいのかわからないという声をよく耳にします。
でも、それでいいんです。何も考えずに、白紙で来るのが一番良いんです」
そう語る関さんの言葉には、お寺を特別な場所ではなく、誰もが気軽に訪れることのできる心の拠り所にしたいという願いが込められています。
「心に迷いがあったり、何か考えがまとまらなくて、うつうつとしている時こそ来てほしいものです。宗派なんて関係なく、本来は一つであるべきですから。
お釈迦様だって、最初から難しいことは説いたりはせず、人々の理解に合わせて、少しずつ教えを説いていったのでしょう。
自分の不幸を先祖のせいにしたり、運が悪いと嘆いたりする人がいる。でも、それは違う。繰り返しになりますが、自分自身の普段の心がけや行いが、自分を尊くもし、醜くもするのです」
関さんの教えは、現代を生きる私たちへの温かな叱咤激励のよう。
新しい一年の始まりにふさわしい、心の在り方を考えるきっかけをもらえた気がしました。
妙宣寺を訪れて参拝をしたあとは、ぜひ境内を散策してみてください。
歴史的建造物の荘厳さや庭園の美しさなど、非日常に浸れる時間と空間を体感できるはずです。