松﨑 健太郎 (まつざき けんたろう)さんの自己紹介
地元は喜多方ですが、お袋が大阪出身、祖母は滋賀県に住んでいて、小さい頃から関西に行く機会が多かったです。松﨑家は商売人の多い家系で、昔から近江商人に浸透する「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方良し」の理念を聞かされて育ちました。21歳で「おくや」を創業すると、最初は何でも屋でしたが、農家さんたちの御用聞きをしているうちに豆菓子を販売するようになりました。自分たちで落花生栽培を始めるようになり、2020年に「おくや」を分社化、農業法人「オクヤピーナツジャパン」代表に就任しました。2023年5月、社名を「APJ株式会社(以下、APJ)」に変更。世界に誇れる会津産ピーナツを、生産・加工・販売しています。
PROLOGUE
会津に遊びに行ったら、必ず食べたい喜多方ラーメン!
数々の名店が軒を連ねる喜多方駅周辺は、歩いているとおいしい発見がたくさんあります。
ごっつぉLIFE編集部が向かったのは、喜多方駅から徒歩5分ほどの「喜多方うるし銀座通り」。
喜多方にはラーメンだけでなくおいしいスイーツもたくさんあると聞きつけ、ワクワクしながら向かいました。
かわいい看板が目印です。
2022年9月に「おくやピーナッツ工場」から「アイヅピーナツマート」に店名を変更されています。
会津産のピーナツをたっぷり使用したスイーツが味わえる「アイヅピーナツマート」。
取材で訪れた日も、ソフトクリームを注文する地元の人、お土産をたくさん購入する観光客が続々と来店していました。
店内には商品がたくさんあって、きっと目移りしちゃいますよ。
一番人気の「アイヅピーナツソフトクリーム」はリッチチョコクランキーがトッピングされたものもありました。
き、気になる……!
注文する前に店内をもう少し散策してみます。
新潟県内では見かけない「塩ゆでピー」。
「ピーナツって茹でるとどうなるんだろう!?」という好奇心に駆られ、ついつい試食に手が伸びちゃいます。
殻を剥いてビックリ!
見たことがないくらい大きな実が出てきました。
白いベール(薄皮)に包まれた、大きなピーナツ。
口に入れると……これがまた、最高においしい。
欲を言えば、ビールが欲しくなる最強のおつまみ。
おつまみといえば枝豆が定番でしたが、その概念を覆すおいしさです。
その他にも、煎りピーナツにピーナツバター、プリンなどなど。
気になる商品がずらりと並んでいました。
味わいや食感が気になる商品にはほとんど試食が用意されているところも嬉しいですよね。
会津産のピーナツを100%使用しているから、会津土産にぴったりです。
それにしても、なぜ会津でピーナツ……?
商品に込められた想い、そして、知られざる歴史を持つ会津産ピーナツの物語について聞いてみました。
INTERVIEW
どんな御用も聞く「何でも屋」から「豆屋」へ転身。
「2009(平成21)年から落花生の契約栽培を始め、今では会津豆クラブに所属する60人の契約農家さんたちとピーナツ生産に取り組んでいます」と教えてくれたのは、
「アイヅピーナツマート」を運営するAPJ代表取締役の松﨑健太郎さん。
小学校の卒業アルバムに書いた将来の夢は「社長になること」。
子どもの頃の夢を実現しつつ、20代、30代の経験が現在に活かされていました。
「開業当時は事業内容すら明確になっていなくて。
稼ぐ術がないから、人の役に立つことなら何でもやろうと思いました」
弱冠21歳でAPJの前身となる「おくや」を開業した松﨑さん。
社名には、「一億円稼げる企業になり、億単位の人々を相手にする仕事をしたい」という想いが込められているそうです。
親戚や近所の農家さんたちからの依頼には、ペンキ塗りやしょうゆ配達、時にはお墓掃除や代理でお葬式に参列するというものまであったそうです。
どんなに面倒な作業でも逃げずに続けて4年が経過した頃、少しずつ運命が動き出します。
「ある時、農家さんから『黒豆を町で売ってきてくれ』と言われ、豆の卸売をするようになりました。
最初は問屋さんにそのまま売るだけでしたが、突如相場が崩れてしまって。
今までの半額程度の価格でしか豆が売れなくなってしまったんです。
農家さんからは『なんで同じ仕事をしているのにそんなに安くなるんだ。儲けに走ったな!』と言われてしまう始末。
仕方なく、これまでと同じ価格を払い続けました。
しかし、このままでは損をする一方ですから、豆を煎り豆にして元の価格で販売してみたんです。
すると、試食販売していた豆が30分で売り切れに!驚きました。
これなら、『農家さんに値引きをしてもらわなくても、僕が付加価値を付ければ商売になるんだ』と気づきました」
次第に、豆の卸売から豆菓子の販売が主軸になった「おくや」。
豆菓子の製造をしていると、次に意識するようになったのが原料生産です。
青豆や黒豆は簡単に手に入るのに、ピーナツだけはどうしても国産原料が手に入らない。
そこで、ピーナツの原料生産も自社で行うことを目的に、2006(平成18)年「おくや」を法人化しました。
同じ頃、福島県中小企業家同友会が主催する勉強会で、人生の岐路を迎えるきっかけも。
それは、経営理念を考えていく中で講師の方から伝えられた「君の物語は豆屋だよね」という一言。
それまで、〈何でも屋〉だと感じていた松﨑さんの中で、散らばっていた点と点がつながっていきます。
何でも仕事を引き受ける御用聞きを止め、〈豆屋〉として専念することを決断した瞬間でした。
2009(平成21)年から落花生の契約栽培を始め、2020年に農業法人「オクヤピーナッツジャパン」を創業。
長年「おくやピーナッツ工場」の名前で親しまれてきたショップを、「アイヅピーナツマート」に変更したのは2022年9月のことでした。
そして、2023年5月。社名を「APJ(アイヅピーナツジャパン)」に変更。
「会津産ピーナツを世界に誇るピーナツにすること」が、松﨑さんの目標です。
「この3年間で25個の新商品を新しく開発してきました。
ピーナツの商品開発は無限にできます」
豆菓子にこだわりすぎて、農家になった松﨑さん。
現在は商品開発の他、営農指導、学校やイベントでの講演にも積極的に参加。
常に最前線で活躍されています。
ピーナツの町・会津を復活させる。
松﨑さんが農家になった理由は他にもあります。
会津の各地域で増加する空き農地。
使われていない農地を活用し、何かを生み出していくことが〈自分の使命〉だとさえ感じたそうです。
空き農地を利用した落花生栽培を進める中で、驚きの事実もありました。
ちなみに、落花生とピーナツの違いは
「殻付きが落花生、殻を剥いたものがピーナツ」とも教えてくださいました。
「落花生栽培を始めた17年前、千葉県から落花生の種を仕入れて、地元農家さんたちに配りました。
そうしたら、70代以上の農家さんたちはなぜか落花生の作り方をよく知っていたんです。
話を聞いてみると、実は1975(昭和50)年頃から東北全体で千葉産落花生の契約栽培を行なっていたことが分かりました。
中でも会津は落花生の出荷量が多かったらしく、およそ40年前に会津は落花生の名産地という歴史が残っていたんです。
会津で落花生を作っていたけれど、千葉で加工され、千葉県産として販売されていた。
だから、その歴史はごく一部の人しか知らなかったようです」
最盛期には100町歩(東京ドームおよそ20個分!)の落花生畑があったという会津。
現在、APJが持つ落花生畑は10町歩ほどということですから、そのすごさが伺えます。
では、会津の落花生栽培の歴史はなぜ途絶えてしまったのか?
そこには、輸入落花生の浸透、価格相場の崩壊がありました。
「会津産の落花生が千葉県産として売られていたこと」
「変動相場制に頼っていたこと」
この2つがなければ「会津はもっとピーナツの街として知名度を上げていただろう」と松﨑さんは予想します。
昭和のように広大な落花生畑を会津につくる。
40年前に会津にあった100町歩の落花生畑を目指し、APJで出荷した落花生は徐々に県内外へ流通範囲を拡大しています。
「落花生といえば、中国産か千葉県産をイメージされるかもしれませんが、節分の時季には東北内約580軒のスーパーにAPJ出荷の会津産落花生も並びます。
会津で育った落花生は、粒が大きくて油分が多いのが特徴。
千葉では同じ畑で何毛作もしていくそうですが、豪雪地の会津では一毛作で落花生を育てるので、その違いが実の大きさ、味わいに出ているのだと思います。
千葉の農家さんからも『これがナカテユタカか!?』と驚かれることが多いです。
大きくてカリカリというよりは、ジュワッとクリーミーな会津産ピーナツ。
たくさんの方に召し上がっていただきたいです」
EPILOGUE
ピーナツで仕事を増やす。喜多方がもっとおもしろくなる。
松﨑さんが落花生の栽培を始めて早14年。
同じタイミングで取り組んできたのが農業と福祉の連携です。
「昔からお世話になっている農家さんたち、新しく農業を始める若手農家さんたちにも、大きな負担をかけずに営農いただけるように、洗浄、選別、乾燥、焙煎まで行えるピーナッツセンターの設備を整えてきました。
『おくや』を創業した当時から、農家さんの役に立つことが働く目的であることに変わりはありません。
また、人一倍就労訓練をされている障がい者施設の皆さんにも、畑作業を手伝っていただいたり、ソフトクリームの巻紙作りや商品のシール貼りを手伝っていただいたりと、さまざまな仕事をサポートしてもらっています。
特別支援学校の職業体験、卒業生の雇用も、積極的に受け入れてきました。
僕たちが直売店を1軒増やせると、落花生を栽培する農家さんを10人増やせるのはもちろん、お店で働くスタッフの雇用も必要になります。
まずは福島県内に10軒くらいの小さなピーナツスポットをつくり、一緒に会津産ピーナツの生産を担ってくれる農家さん、一緒に店を営業してくれるスタッフを増やしていきます」
現在、新規出店の話が複数進んでいるとのこと。
ピーナツで会津の人々においしい喜びと働く喜びをプレゼントしているように感じました。
そんな松﨑さんが考える、今後の展望とは……!?
「APJのピーナッツセンターがある熱塩加納(あつしおかのう)町は、温泉があって、私たちが育てたピーナツだってあります。
町全体をピーナツ村にして、ピーナツバターを作るワークショップや落花生畑の収穫体験ができる、会津らしいテーマパークを完成させたいです。
お昼はピーナツカフェでピーナツ担々麺やピーナツソースカツ丼も食べられるようにして、ピーナツ温泉で体を癒やして帰れる。
喜多方はまだまだおもしろい街になりますよ」
最後に、会津産ピーナツを一番おいしく味わえる食べ方についても聞いてみました。
「最初はやっぱりソフトクリームを食べてほしいですね。
ピーナツを贅沢に使用した、自慢のソフトクリームです。
冬季限定販売のピーナツクリームが入ったきんつば(大判焼き)も一押しですよ」
「アイヅピーナツソフトクリーム」は、レギュラー、ミニ、カップの3種類から選べます。
トッピングのピーナツがソフトクリームのおいしさを引き立てる、「アイヅピーナツマート」の名物スイーツです。
真ん丸の「ピーナツきんつば」は、ピーナツのこってりとした甘さがしっかりと感じられる名品!
例年11月から3月まで提供される、期間限定メニューです。
クリームがたっぷり入っていて、口にした瞬間笑顔がこぼれます。
どちらも奥深いピーナツの味が印象的でした。
会津産ピーナツはどうしてこんなにおいしいのでしょうか?
「APJでは、ピーナツを2度焙煎することで、水分を飛ばして濃厚なおいしさを引き出しています。
あとは、40年前の物語を大切にしながら、雪国ならではの内職として全粒手剥きにこだわってきました。
この手剥きの作業も、障がい者施設の皆さんからご協力いただいています。
手剥きのピーナツは機械で剥いたものよりも格別においしいですよ。
『アイヅピーナツカフェ道の駅喜多の郷店』では、カフェ限定のピーナツシェイクも販売しているので、ぜひお試しください」
塩ゆでピーに、アイヅピーナツソフトクリーム、ピーナツきんつばもいただきましたが、まだまだ食べてみたい商品がたくさんありました。
季節限定の商品や、11月から2月には新豆の塩ゆでピーも購入できるので
訪れるたびおいしい出合いがありそうです。
会津を訪れたら、皆さんもぜひ立ち寄ってみてください!
NEXT EPISODES
会津塗を新たな視点で伝承する変革者
最後に、会津の魅力的な人をおふたり、松﨑さんからご紹介いただきました。
1人目は、会津の伝統的工芸品である「会津塗」を継承する、三義漆器店(さんよししっきてん)代表の曽根佳弘さんです。
「伝統産業の会津塗を、これまでとは違う角度で増やしていった人物。
同じ勉強会で切磋琢磨してきましたが、学んだことを実直に実践されてきた
まさに、新時代の経営者です。
水がない環境でも使える食器、土に戻る食器など、
地球のこと、未来のことを人一倍考えて仕事をされています」
松﨑さんも驚いた、地球に優しい商品とは……?
どんな食器と出合えるのか、とても楽しみです。
喜多方の街づくりに欠かせないキーパーソン
2人目は、喜多方老麺会の専務として活躍されている山田貴司さん。
「以前から交流がありましたが、特に東日本大震災以降、親交が深まりました。
というのも、震災をきっかけに地元農産物や特産品は海外輸出が完全にストップ。
そんな中、福島のモモを最初に受け入れてくれたのがタイでした。
そのニュースを見てからいてもたってもいられず、仲間5人で集まって喜多方ラーメンを海外へ輸出するための事業を進めてきたのですが、その仲間の一人が山田さんです。
街にイノベーションを起こす、喜多方に欠かせない存在。
僕にとっては、兄貴分であり、相談相手でもある。
曽根さんも、山田さんも、とてもおもしろい方なので、いろんなお話を聞いてみてください」
喜多方市内を歩いている時、至るところで喜多方老麺会制作の「ラーメンMAP」を発見しました。
どのような取り組みを行なっているのか、たっぷり聞いてみたいと思います。