
笹川 太朗 (ささがわ たろお)さんの自己紹介
新潟市中央区出身で、餅屋の息子として生まれ育ちました。高校を卒業後は東京の大学へ進学し、卒業後は業務用チョコレートメーカーで営業職として働いていました。30歳でUターンして以来、笹川餅屋の六代目として店を継いでいます。先代が築いた笹団子の味を守りつつ、新しい商品開発にも取り組んでいます。学生時代はずっと野球をしていました。
INTERVIEW
家業から逃げ出したかった過去
現在、笹川餅屋の六代目として店を守る笹川太朗さんですが、幼い頃は家業を継ぐつもりは全くなかったといいます。その理由はなんと「新潟から逃げ出したかったから」だと、笹川さんは振り返ります。
「高校を卒業して関東へ行ったのも、新潟だとどこへ行っても『おじいちゃんの話』だったり『お店の話』をされるのが本当に嫌だったからなんです。だから、自分のことを誰も知らない場所へ行きたかったんです」

その上、両親は商売で忙しく、土日もどこへも行けない……商売をやっているお家の宿命も、幼い頃の笹川さんは良いように捉えることができませんでした。
そんな窮屈に感じていた新潟を飛び出し、大学進学を機に上京した笹川さんが大学卒業後に就職したのは東京の業務用チョコレートの会社でした。就職氷河期でしたが、新潟に帰る選択肢はなかったといいます。
「その会社では、お菓子屋さんやメーカーへの提案型営業をしていました。1日に8軒から10軒もの洋菓子店を回り、新作のケーキやチョコの試食を求められるんです。『新作ができたから食べて意見を言ってくれ』と言われる日々です。もともと甘いものが好きではなかったんですが、仕事なので食べるしかありません。ほとんどはその場で食べなければならず、かなりハードでした(笑)」
ただ食べるだけでなく、シェフと対等に話すためには知識も必要です。何が流行っているのか、これからどういうお菓子が流行るのか、レシピと一緒に情報を提供することも、笹川さんの仕事でした。この過酷な日々が、今の笹川さんを形作っていると、笹川さんは振り返ります。
「仕事の幅が広がって、大手メーカーの工場ラインの立ち上げやテストにも関わるようになりました。例えば、色付きのチョコレートを作る際、ラインを黒いチョコから白いチョコへ切り替えるのは洗浄が大変なんです。そういった工場の衛生管理やラインの仕組み、歩留まりの悪さなども含めて理解していないと、工場長や開発担当者と会話になりません。現場に行って一緒にラインテストも行いました」
個人経営の小さなパティスリーから、誰もが知る大手製菓メーカーや乳業メーカー、コンビニスイーツの製造現場まで。規模の違う様々なお菓子作りの現場を見てきた経験は、笹川さんにとって計り知れない財産になったのです。

(※ご提供画像)
「衛生的な知識はもちろん、作り方、品物のこと、価値観の違いなど、広く見ることができました。当時の経験のほぼ全てが、今の仕事に生きています。製造現場の管理から、新しい商品の提案、経営の視点まで、今の自分の指標になっていますね」
30歳目前での帰郷。父との別れ
チョコレートの営業マンとして活躍していた笹川さんですが、取り引き先の洋菓子店やメーカーなどいろいろなお店や企業を見てきました。商売を続けることの大変さを目の当たりにする中で、ふと頭によぎるのが家業である笹川餅屋の存在。営業の仕事は、100年続く家業の偉大さを実感するきっかけにもなりました。
「実は、30歳までに東京に残るかどうするか決めようと考えていました。親には相談せず、妹と弟に店を継ぐ気持ちがあるかどうかを確認して、継ぐ気持ちがあるなら譲るつもりでいたんです。もし今、父が亡くなって店がなくなったら、自分は後悔しないだろうかと、自分の考え方が変化し始めたころでした」

そう自問した時、答えは決まっていました。笹川さんは会社に退職を申し出て、新潟へUターン。そのころはちょうど笹団子の時期であったにも関わらず、東日本大震災の発生で自粛の流れとなり、売上が激減した時期でもあったそうです。
その上、笹川さんが五代目である父・悦生(えつお)さんと一緒に仕事ができたのは、実質3〜4年ほど。最大の試練は、悦生さんが亡くなる数年前、最も忙しい繁忙期に訪れました。
「仕事が最も忙しくなり始める11月のことでした。父が突然、倒れたんです。実は、病院からがんの疑いがあると紹介状をもらっていたのに、家族に隠して仕事を続けていたようで……。緊急搬送されて医師からは非常に厳しい状況と告げられましたが、奇跡的に一命を取り留めました」
11月から1月にかけては、餅屋にとって一番過酷な繁忙期。この2ヶ月半、笹川さんの孤独な闘いが始まりました。
「当時はまだスタッフも少なくて、餅をつけるのは父と私だけでした。その父がいなくなって、僕がやるしかなかったんです。深夜に作業を始め、終わるのは夜。寝る間も惜しんで餅をつき続ける生活が2週間以上続きました。あの時の記憶はほとんどありません(笑)」

そんな大変な状況ながらも、お客様から「今年の餅は味が落ちたね」とは一切言われなかったそう。それがまた笹川さんの救いになったといいます。悦生さんが亡くなり、六代目を受け継いだ笹川さん。極限状態を一人で乗り越えたことが、店を受け継いでいく自信になったのですね。
EPILOGUE
商売を続け、街の記憶をつないでいく
笹川さんのインタビューでは、街の歴史や移り変わりについても話が及びました。昔この辺にファストフードがありましたよね、白寿のラーメンがおいしかったですよね……といった話まで、いろいろな思い出や記憶を振り返る機会にもなりました。
そして、街の中を生活の場、遊びの場にしてきた笹川さんにとって今、新潟の街の面白さはどういった点にあるのか。これも個人的に気になって、尋ねてみました。

「僕が今も面白いなぁと思うのは、この近辺にすごくお寺が多いことです。この西堀通は『寺町』と呼ばれるほどお寺が並んでいますが、入り口が狭くて奥まっているので、普通に歩いていると気がつかないんですよね。でも、一歩中に入ると宗派によって建物が全然違っていて非常に面白いんですよ!NEXT21の展望台から街を見下ろしてみると、お寺が多いのがよくわかると思います。こういう日本らしい光景って、意外と海外からの観光客に喜ばれるんですよね」
一見しただけでは分からない、奥まった場所にこそ本質がある。物事の見方を少し変えるだけで新しい魅力に出合える、そんな視点を変えることの大切さを笹川さんが教えてくれたような気がしました。
インタビューの終盤。笹川さんは懐かしそうに、かつての西堀・古町界隈の風景を語ってくれました。さまざまなお店が並び、街に活気があったこと、にぎわいの中で育ってきたことなど、新潟市のど真ん中で生まれ育ってきた笹川さんが語る街の光景には、どこか昔懐かしさと温かさが感じられます。
「夜になると、また少し違った風景になるんです。この辺は大人の社交場でありながら、僕にとっては家の延長のような感じもありました。小学生の頃、夜になると飲みに出かけた親父を探しに赤提灯のお店へ入っていくんです(笑)。ガラッと戸を開けて『うちのお父さんいる?』と聞くと、店の大人が「今日は来てないよ」と答えると「わかった。じゃあ違う店に行ってみる」と次の思い当たるお店へ向かう。大人たちが僕らを見守ってくれているような温かさと緩さが、この街にはありました」
街の景色は変わりましたが、ここで商売を続けるということは、そうした『街の記憶』を繋いでいくことでもあるのですね。その変化をしっかりと受け入れ、日々仕事に向き合う笹川さんから元気をもらいました!











