
馬塲 由紀子 (ばば ゆきこ)さんの自己紹介
1969年、栃木県宇都宮市生まれです。14歳のとき、父の実家がある福島県会津若松市へ移り住み、中学・高校時代を過ごしました。日本体育大学を卒業後、Uターンし地元銀行に勤務。結婚を機に家業である割烹「田季野」に携わり、2009年から女将として店を切り盛りしています。郷土料理を通して、会津の食文化と魅力を全国に発信しています。
PROLOGUE
「お料理がおいしいのはもちろんのこと、女将さんのお人柄が素晴らしいんですよ!一度会ったら、きっとファンになりますよ」
前回伺った、磐梯酒造の桑原さんからご紹介いただきやってきたのは、会津エリアの中心都市である福島県会津若松市です。

会津若松市は、鶴ヶ城をはじめとする豊かな歴史と伝統文化が今も息づく城下町。土蔵造りの建物が並ぶ町並みには、今も昔ながらの情緒が漂っています。

JR会津若松駅から鶴ヶ城へ向かう途中、市役所通りから一本脇道に入った場所に、「割烹・会津料理 田季野(たきの)」があります。思わず目を引くこの立派な建物は、約250年前に建てられた会津西街道の糸沢陣屋を移築・復元したもの。白壁と木組みが織りなす外観は堂々としながらも落ち着いた風格が漂います。
暖簾をくぐると、吹き抜けの土間が広がり、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのよう。この特別な空間の中で、一体どんなお料理が味わえるのでしょうか。

「ようこそ、おいで下さいました!」
明るい笑顔で出迎えてくれたのは、二代目女将の馬塲 由紀子(ばば ゆきこ)さん。
今回は馬塲さんに、名物料理が生まれたきっかけやお店の歴史、女将としての苦悩や新たな挑戦まで、たっぷりとお話をお聞きしました。と、その前に……腹が減ってはインタビューはできぬ!ということで、名物料理をいただきました。
INTERVIEW
11種のきのこが織りなす、曲げわっぱの魔法

「当店名物の五種輪箱飯(ごしゅわっぱめし)と会津の地そばがセットになった『会津物語』でございます。どうぞごゆっくりお召し上がりくださいませ」
同店の創業時から提供しているのが、名物のわっぱ飯。わっぱ飯とは、薄い木の板でつくられた「曲げわっぱ」と呼ばれる器の中に、ご飯や具材を詰めて、蒸し上げた料理のこと。
中でも看板メニューの「五種輪箱飯」はきのこ、鮭、蟹、ぜんまい、卵焼きが彩りよく盛られ、ふわりと芳醇な香りが立ちのぼります。一口頬張ると、プリプリとしたきのこの歯ごたえとうま味が広がり、具材の下に敷かれたご飯はもっちりと深い味わいです。あまりのおいしさに、思わず笑みがこぼれます!

「お客さまからよく聞かれるのですが、ご飯にはだし汁ももち米も使用しておりません。『五種輪箱飯』には、11種類の会津産きのこが使われていて、そのうま味が染み込んでいるんですね。そしてやはり、この曲げわっぱの力だと思います。派手さはありませんが、化学調味料は一切使わず、素朴な手作りの味を大切にしています」と馬塲さん。
会津産きのこを丁寧に下処理し、鮭は生の切り身を醤油や酒など発酵調味料に漬け込んでおきます。ご飯の上に盛り付けじっくり火を入れ、仕上げに植物性の油をほんの少し加えることで、旨みを閉じ込めるのだとか。 さらに、曲げわっぱが余分な水分を吸収しつつ、ほどよく湿度を保ってくれるため、ご飯がふっくらもちもちとした食感に仕上がります。
おいしさの秘密は、丁寧な下ごしらえと曲げわっぱの力にあったのです。

そしてこのセットでは、会津そばと郷土料理2品も味わえます。そばのおわんに挿されているのは、なんと長ネギ。箸の代わりとして食べたり、薬味としてかじったりするのが会津流とのこと!なんとも楽しい演出です。
どの料理も素材のうま味がしっかりと感じられ、体に染み渡るようなおいしさ。やさしい味付けに、どこか懐かしさを覚えました。

「昔は保存のため味が濃かったんです。でも今は生活環境も変わり、体にやさしい味が求められます。伝統は守りながらも、時代に合わせた見直しが必要だと思っています」と馬塲さん。
変わらない伝統の味わいと、時代に合わせた工夫。その両立こそが、田季野の料理を特別なものにしているのです。
先代の先見の明が生んだ「わっぱ飯」

田季野の創業は1970年。初代店主が、南会津の檜枝岐村(ひのえまたむら)で出会った曲げわっぱの弁当箱に魅力を感じ、「会津の食材を生かした料理をこれに詰めて提供したい」とひらめいたのが始まりだったそうです。当時はまだ「地産地消」という言葉もなく、地元食材へのこだわりは理解されず、周囲の反応も厳しかったといいます。

「創業時は小さなお店から始まったそうです。今でこそ、地産地消や地元グルメが一つの価値になっていますが、当時は地元の方になかなか受け入れられなかったそうです」と馬塲さんは静かに語ります。
それでも先代は信念を貫き、少しずつわっぱ飯の魅力は広まりました。1982年、現在の場所へ移転し、旅行情報誌に紹介されたことで人気に火がつき、全国からお客さんが訪れる店へと成長したのです。

「有名なガイドブックに紹介されたことで、田季野のわっぱ飯が一気に有名になったそうです。それから行列ができるようになったと聞いています」
現在は各種わっぱ飯のほか、季節の食材を使った会席料理も提供し、40年以上にわたって会津の味を伝え続けています。
大きな試練、そして全国への挑戦
「嫁いでから初めてでした。お客様が1人も来ない日が1カ月以上も続いたのは」
馬塲さんが田季野に来てからこの30年間で、最も苦労したこと。それは、東日本大震災でした。

建物は無事でしたが、人の往来が途絶えることに……それでも馬塲さんは、スタッフを誰一人減らさずなんとか持ちこたえようと、お店を存続させる方法を懸命に模索したといいます。そして、「待っているだけではだめだ」と大きな決断をしたのが、百貨店の催事に出ることでした。これまで店舗営業しかしていなかった馬塲さんやスタッフさんたちにとって、大きな挑戦でした。
しかし催事では、心ない批判を受けることもありました。
「首都圏の催事でお客さまから『何で来るの?』と直接言われたこともありました。風評被害の大きさを痛感して、お店をやめようかと思ったこともあります。それでも続けてこれたのは、批判以上に応援してくださる方々の存在が大きかったからです」と馬塲さんは目を潤ませながら語ります。

それから北は北海道、南は沖縄まで全国の催事に出向き、わっぱ飯弁当の販売を続けました。やがて「おいしかったからお店にも行きたい」と会津若松の店舗を訪れる人が徐々に増えていったのです。
そして2017年、田季野にとって大きな転機が訪れました。JR東日本の豪華寝台列車「TRAIN SUITE 四季島(トランスイート シキシマ)」から、朝食提供の依頼が来たのです。東京から新潟を経由し、会津若松に到着する1泊2日のコースで、2日目の朝食会場に田季野が選ばれました。

「試運転で会津若松に列車が来たときに、実際に車両を見て驚きました。こんなに豪華な列車で旅をされるお客さまに、うちの食事をご提供できるなんて。大変光栄なことですよ。そして、それからありがたいことにマスコミへの広がりが一気に進んで、世界が広がり始めたんです」
贅を尽くした四季島の朝食会場に選ばれたということは、田季野の味と取り組みが認められた証。この出来事をきっかけに、さまざまなメディアから取材の依頼が舞い込み、震災を通じて「表へ出ること」の大切さを実感した馬塲さんは、積極的に取材を受けていったそうです。
すると、段々と田季野のわっぱ飯だけでなく、馬塲さん自身にも光が当たるようになり、「これまでの経験を話してほしい」と、大学での講演依頼も増えていきました。昨年は、母校である日本体育大学でも講演を行い、自身の経験を若い世代に伝えたそうです。

「会津らしさや、会津にしかないものをきちんと伝えていかないといけない。その魅力を発信して、会津に足を運んでもらうのが自分の役割だと思っています」
田季野のわっぱ飯に込められたのは、会津の恵みと故郷を想うまごころ。そんな心に沁みる温もりが、多くの人の惹きつけている理由なのかもしれません。
次回は、馬塲さんの生い立ちや、パワーの源について詳しくお聞きします。お楽しみに!








